はじめに

 体がうまく組み上げられ、育ち、活動し、子孫にそれを受けついで行く生命の流れ は、その指令書である遺伝情報が正しく読みとられ、順序正しく実行されてこそ途切 れることなく流れ続けます。膨大な数の情報の一つに変化が起こるだけで、わたした ちの体には様々な影響が現れます。ヒト・ゲノム解析研究は、30億字に誌されたヒ トの全遺伝情報を解読し、ゲノムの構成、遺伝情報の制御を明かにし、ひいては生命 の流れの中におけるヒトの存在意義にまで迫ろうという壮大な計画なのです。

 ヒト・ゲノム解析研究によって生産され、蓄積される情報は、21世紀のバイオサ イエンスの基盤としてあらゆる生命科学の研究に大きな影響をもたらすでしょう。特 に医学と薬学領域には画期的な研究の変革がもたらされることが予見されます。4,000 を越える遺伝病、10万に達する遺伝子、人類出現以前から受け継がれてきた遺伝子系 の基本構造。これらの全体像を取り込んだデータベースとその情報を駆使する新しい 情報科学としての生物学が姿を見せてくるのです。ゲノム解析から得られる多様な遺 伝情報が書き込まれたソースブックは、出来上がるのを待つまでもなく時々刻々新し い科学技術の発展の原動力として働き続けるにちがいありません。

 1970年代に遺伝の関わる現象がすべてDNAとして研究できるようになり、大いなる 変貌を遂げた生物学は、ゲノム研究を契機として国際協力と競争を巻き起こしつつさ らに21世紀に向けて飛躍を続けるのです。

 本書は、文部省におけるヒト・ゲノム解析研究の成り立ちと活動の内容、最近の研 究の流れを、一般の方々にも知っていただくことを目的に企画制作しました。ゲノム 研究がこれからの社会に与えるインパクトをおもうと、なるべく多くの方々の充分な 理解と支持を得ることが、この新しい学問の健全な発展に不可欠だと考えるからです。

                         1993年7月  

                              松原謙一