Genome Informatics News, Vol. 1, No. 4, October 1994

瀬戸保彦先生を悼む

金久 實(京都大学化学研究所/東京大学医科学研究所)

 蛋白質研究奨励会の瀬戸保彦先生は1994年7月28日午後8時20分大阪大学医学部附属病院にて急逝されました。重点領域研究「ゲノム情報」の班員として活躍中でしたので、7月になって検査のため入院されたと聞き、チュートリアルにも参加できないと聞いたときにも、それほど重大なこととは思っていませんでした。しかしながら、奥様のお話しによると昨年からかなり痩せてきて、今年の1月に背中に痛みがあったり、マンションの階段も歩いて登れないようになってエレベーターを使うようになっていたそうです。8年前42歳のときに胃潰瘍で胃をとったという話は私どももよく聞いていましたが、これは胃癌だったそうです。その後5年間は健康に気をつけた生活をされていたそうですが、5年過ぎてもう大丈夫だろうとのことでいろいろ無理をされるようになってしまったそうです。具合が悪くても病院には行かず、今年の6月になって左腕が上がらないほどの痛みが出ても、ご本人は近くの整形外科で見てもらう程度にしか考えなかったそうです。7月に検査を受けたときはもう癌の末期状態で、対処療法しかとれなかったとのことです。本当に我慢強い人だったと奥様も語っておられました。
 瀬戸さんは1967年京都大学理学部化学科を卒業後、甲南大学理学部助手を経て、1974年1月に財団法人蛋白質研究奨励会の研究員となりました。1975年タンパク質・ペプチド関連の文献情報誌 Peptide Information の発刊、1979年にはそのデータベース PRF/LITDB とアミノ酸配列データベース PRF/SEQDB を創始し、日本独自のデータベース活動に大きく貢献されました。1991年に重点領域が始まって3年の間に、配列データベース SEQDB の自由な配布の開始、NCBI (National Center for Biotechnology Information) との協力体制の樹立、ゲノムセンターを通して文献データベース LITDB の提供と、今思えば瀬戸さんは20年間のご自身の仕事の集大成を図っていたようです。また、磯山さんや池内さんらの後継者の養成も順調で、奨励会のデータベース活動は今まで通り継続されるとのことです。恐らく本人にとって心残りなことは、ご自分のデータベースを活用し、タンパク質の進化などに関してこれからゆっくりと自説をまとめあげていこうとする矢先だったと思われることです。
 私が瀬戸さんに初めて会ったのは1985年6月のことだったと思います。当時私は米国 NIH にいましたが、岡山の林原研究所で開かれた国際シンポジウムに招待され、その際大阪大学蛋白質研究所で開かれた「蛋白質の配列データバンクと情報解析」シンポジウムでお会いしたように記憶しています。1985年の10月に私は京都大学化学研究所に着任し、瀬戸さんとは大井龍夫先生の所でよく会いました。1987年5月に米国メリーランド州で開かれた CODATA のワークショップに出席した際には奥様と3人でドライブをしてまわりました。その後、土曜日によく京都の私の研究室においでになるようになり、スーパーファミリーを特徴づける配列モチーフを抽出する方法は、彼とのディスカッションの中から生まれました。これは、Proteins と Protein Engineering に発表されています。瀬戸さんの奇想天外な発想はちょっと理解しにくい所もあるのですが、なかなか独創的なアイデアをお持ちでした。
 1979年に私どもがロスアラモス国立研究所で GenBank の前身である DNA データベースを始めたときは、配列データを生物的見地から眺めたデータベースを考えていました。新しい配列が追加されたときに、それが過去に報告されたものと同じだったり、連続した領域だったりした場合、過去のデータに遡って変更する必要があったわけです。この考え方は残念ながらデータの急増に対応できませんでした。現在の NCBI-GenBank は配列データを単に文献に付随したファクトとして眺め、個々のファクトを蓄積することのみに専念しています。ファクト間の関連を調べてファクトを変更することはデータベース作成者の仕事ではないのです。このアプローチは実はずっと以前に瀬戸さんにより文献情報とリンクされた配列データベースとして実現されていました。奨励会のデータベースについては私は欧米でのミーティングで話したり、個人的に NLM (National Library of Medicine) の人と話したりしていました。NCBI が奨励会のデータを取り込むようになったとき、彼らがカバーしていなかった文献と配列が非常にたくさんあったと聞いています。瀬戸さんの国際的な貢献については十分に認識されていると思います。
 奥様からお聞きした瀬戸さんの最後の言葉は「ありがとう、ありがとう」だったそうです。瀬戸さんどうもありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。