ゲノム情報ニュースレター第3号(1992年9月)

ちがう眺め

松原 謙一(大阪大学細胞生体工学センター)

 ヒトの一生を、卵子と精子がめでたく結合して受精卵ができた時から考えることにしよう。これが分裂を繰り返して細胞の塊になる。やがて小さな心臓が動き出し次第に神経系や骨格が現れて来る。姿は魚の先祖 (?) → 四つ足の先祖 (?) と変遷してやがて誕生にこぎつける。それでも体重わずか3Kgのミニチュア人間だ。誕生─空気呼吸に切り替わってから、さらに十余年の成長期間のうちに、ミニチュアの各パーツはバランスよくみんな 20 倍ほどに大きくなる。若しコンピューターを働かせながら 20 倍大きく改造しようとしたらさぞたいへんだろう。それから先のことは、ほぼ我々の記憶に残っているとおりだ。子孫の再生産をすませ、社会的、文化的活動期を経、やがて避けられぬ老化、死への過程を歩む。
 あたりまえのことといえばそれまでだが、このドラマにほんの数分間、改めて思いを馳せると日常の「いそがしさ」からふっと切り離されて、その不思議さ、したたかさに心をうばわれてしまう。それは星空を見上げた時のような不思議な想いだ。
 ヒトゲノム解析計画は、十数年のうちに、ゲノムを構成する DNA の 30 億ヌクレオチド(文字)の配列を決定し、そこに担われている約 10 万個の遺伝子を明らかにすべく設定されている。多少の個人差には目をつぶってヒトをヒトたらしめる基本的情報が明らかになる筈だ。ロマンチックな感慨を誘う「生のドラマ」をゲノムの言葉はどのように記載しているのだろう。ちなみに、分子生物学は 1000 個ほどのヒトの遺伝子構造を調べあげた。そして、ようやくそれぞれがどのようなしくみでオン・オフされるのかを垣間見させてくれるところにさしかかった。
 遺伝子はテープというたとえはあまりにもポピュラーだ。たしかに、遺伝子、ゲノムは手筈書であって図面ではない。たった 30 億文字で人間の一生が記載しつくせるのだろうか。日本中の情報科学者が使っているあらゆるプログラムとデーターベースには全部で何ビットくらいの「文字」が使われているのだろうか?
 「生のドラマ」はヒトの一生に限定されていない。いのちは脈々と続いてきたものだ。信じられないほどのウイルスの攻撃に耐え(我々のゲノムにはそれらの過去の感染の歴史がちゃんと、しかも多彩に記録されている)、ペストやマラリアの流行に耐え、(人口の急激な縮少と、生き残った人から新たな集団が生成したことを物語る記録がゲノムに残っている)、強い太陽の下では黒い皮膚を、極寒の地では厚いまぶたを、太陽光の乏しい地では金髪、碧眼に‥‥。過去の苦痛、大繁栄、人種、部族、家系、大移動。
 もっとさかのぼって人類の出現。本当にそれはミトコンドリア・イブのストーリーが物語るようにホモサピエンス以外の古代型猿人の絶滅の上に成り立ったのだろうか?人類の多型はどのくらい広範に存在しているのか、そして、どう浮動しているのか。
 ゲノムの記録が読みとられるようになれば、我々の経験を超えたヒト=ホモサピエンスから今日の人類に至る歴史が書かれるだろう。ゲノムというものが如何に安定でありながら変化しやすいものかということを我々が知り始めたことが、これらの基礎になっている。
 思いはさらに拡がる。地球上の生命はみんなただ一つの先祖から分かれ、それぞれ別の道を進化してきたと考える十分な根拠がある。これはあまりにも有名だ。進化の記録を土の中や他の惑星に探すのは至難だが、記録はゲノムの何にもあるわけだ。原核単細胞生物(バクテリアなど)、真核単細胞生物(コウボなど)、細胞の塊のような生物(海綿など)、上皮細胞だけからできているような生物(腔腸動物など)、脊骨のある水中生物(魚など)、四肢と空気呼吸能を具えた両生類、胎生の四つ足動物、それにたくさんの植物‥‥。
 進化の記録をゲノムを基にきちんと比較できるようになるとき。そのときは、生命のドラマを、すがたかたち、生活という日常のレベルから、時間を超えた流れ、空間における相互関連に拡張して捉えられるようになるときだ‥‥。18 世紀に地球上にどんな生物がいるのかを調べ尽くそうという情熱から始まった博物学は、やがて19 世紀にその多様性を進化という概念で理解し、今やその詳細を調べることができそうである。
 「そんな話、みなわかってるよ。」と言われそうなことを延々と書いたのは、ポジションが変わると眺めもちがって来るからである。「ヒトゲノム解析計画は、バイオサイエンスの技術システム、情報システムを大きく変え、医学や薬学を初めとして人類の健康と幸福に大いに貢献する国際協力事業である。」言い馴れた、聞き馴れた紋切り型の約束ごとと、この話、どこかちがっていると思いませんか?
 ヒトゲノムの文字配列決定作業はまだしばらく先のことである。その間に今よりも数十倍から数百倍も効率の高い解析技術の開発が前提となる。まして生命のドラマにも挑もうとなると‥‥。しかし、バクテリア(5 M=メガ=文字)や酵母菌(14 M文字)、線虫(僅か 959 個の細胞から成る動物、80 文字)などのゲノム解析はすでにデータ生産期に入り、今年に入ってから各々 202.8 K=キロ=、315 K、121 K文字の配列決定が報ぜられている。
 情報科学者の目で見ると、もっとがんばれ、もっとデータを作れというところだろうか。そろそろこんなデータを作れ、こんなことを調べてみろという要望が出始めるのだろうか。それとも、よし、それならこんなことをやってみようという人がそろそろ現れて来るのだろうか。