ゲノム情報ニュースレター第2号(1992年3月)

ゲノム情報処理の研究に望むこと

鈴木 義昭(基礎生物学研究所)

 基生研の計算機室を兼務担当することになって、50 代後半の身に鞭打って金久重点で勉強させていただいている。本務である発生の分子生物学的解析学者の立場からすれば、大量に生み出されてくる生物情報(ここでは単にDNAやタンパクの配列情報には限定せず、広く生物に関わる情報を指す)が、こちらの思いつき通りに処理されて一定の答が簡単に得られるようになれば一応の満足であり、同時に兼務の責任も果たされたことになろう。各エキスパートの努力によって、部分的な配列情報については整備されつつあり、近いうちには、時間さえ許せば私にも特定部分にアプローチができそうであり、かつそういう気分にさせられただけ金久重点の brain storming はすごい。
 しかし、こんな部分的情報処理は、本来朝飯前のルーチンであり、本当はもっと先に面白いことのありそうな点が、コンピューターサイエンス研究者を漠と刺激しているのであろう。では、どんなことがありそうか? 私の語ろうとすることは絵空事にすぎないかもしれない。だが、それは私の積極的にのぞむ所である。何故なら、SF作家が 50 〜 100 年前に画いて見せた事の多くが現在では現実のものとなっているからである。 SF作家でもない私にできることは、精々10 年先についての希望を述べたいと思っているに過ぎない。
 私がとりあげてみたいことは、種間ゲノム比較の問題である。ここでとりあげるのは、何も total genome 情報の比較ではなくて、焦点を絞った比較である。例えば、動物の体制を規定することに関わっている各遺伝子ファミリーのうち、homeobox 構造を持つ遺伝子群に限定する。それぞれの動物種で、これらの遺伝子群はどれほどの数と種類があって、種間でどれだけ違うのか? ひとつの homeobox 遺伝子の微妙な違い、もしくは有無によって体制はどれ程変わりうるのか? これら制御に関わる遺伝子の発現をさらに上から制御しているのはどんな遺伝子の産物でどれほどの多様性があり、種間でどう異なるのか?
 それぞれの制御遺伝子間相互の支配関係(hierarchy)はどんなものか? さらに、それらの下位にはどれほどの数と種類の下請け遺伝子群があって、実際の体づくりの作業をしているのか? それらが種間でどれほどの質的・量的な差となっているのか? 言うまでもなく、私がここで問題にしていることに答えるのには、ヒトゲノム研究などをはるかに超えた、何種類もの動物種についてのゲノム情報の研究、特に遺伝子群の機能の研究、さらに発生生物学的研究が進行することを前提としている。
 これらの問に答えるための生物学的研究は日々重ねられつつあり、情報は急速に増しつつある。これらを迅速かつうまく整理して、瞬時に現況が手にとるように理解できるような情報処理が必要である。これらの情報処理が適切に行われる時、そこから直ちに、どのような組合せによって特定の体制を指定することができ、その体制に適合した生物種を割り出すことができよう。ここらあたりからがコンピューターサイエンスの力が発揮される局面となる。つまり、すべての生物種について分子生物学的解析を行って、予測解の適否を検討してみればよい。これらの情報の中には、当然のことながら既知の各種変異にともなって生ずる体制の異常のことも含まれる。次には、可能な限りの理論的変異を導入して、上に与えた予測解がどのように歪められるかを予測してもらう。そのうち限られた数の変異については、分子生物学的解析を実行して裏づけを行う。
 これらの予測解が積み重ねられ、分子生物学的実験によって裏づけ証明が行われた情報は、進化につれておこったであろう種間の体制の変化についてのコンピューター解を同時に与えていることになる。
 体制づくりにとって重要な遺伝子ファミリーは、homeobox 遺伝子群以外にもいくつか知られ研究が進んでいる。これらも当然、上の例のように情報処理される。その上で、ある特定の生物の発生過程は、ありとあらゆる角度と時間尺度で画像表示していくことができよう。実験的研究がしにくい生物種についても発生予測像を示すことができる。やがてそのうちいくつかの種については、発生学的並びに分子生物学的研究が可能となって、予測画像の良し悪しが評価されていく。何と楽しい学問の成り行きではないか。
 2000 年までの間に、これらについての粗い枠組みはできるものと確信している。そして、21 世紀初頭には怒涛の勢いでこれらの情報処理と生物学的実験による検証が実行されて行くであろう。私個人としては、1999 年の退官まで現場でこの作業に関わり、21 世紀初頭に、私の予測がどれ程早すぎていたのか、それとも私の予測などをはるかに超えたレベルに達してしまうのかを見届けて、「見るべき程のことは見つ」とつぶやいて人生の幕を閉じることが許されれば幸いだと思っている。