‐受精卵を思い浮かべてください。その核の中には、その生物の体を間違いなく作りあげ、刻々に変化する外界に対処しながら生活を営み、子孫を作りやがて死に至る、一切の遺伝情報が担われています。これをゲノムと呼びます。この情報を担うのは、DNAと呼ばれるヒモ状の超高分子物質で、アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)という4種の物質が鎖状に連なった構造をしています。遺伝情報は、このA、T、G、C(これを文字と呼ぶことにします)の並びで示されているのです(例えばTATAは遺伝子の始まり、それに次いで現われるATGでタンパク質へのほん訳が始まり、やがて、現われるTAGでほん訳終了。さらにAATAAAで遺伝子の終わりという具合・・・・多少簡略化してあります)。細胞の中では、この指令に従って、「まずあれを作り次にこれを・・・」と反応が進んでゆくので、ゲノムはちょうど「文字」で書かれた工事の手筈書のようなものです。この手筈書がヒト、イヌ、ネズミ、ニワトリ、イネ、線虫、酵母、大腸菌と生物ごとにみな違っているので、各々をヒトゲノム、イヌゲノム・・・と呼びます。
‐難しく言えばヒト・ゲノムとは「ヒトをヒトたらしめる遺伝情報の総体」ということになるでしょう。実体としてのゲノムは我々の体を構成する個々の細胞の核の中にあるDNAのことです。
‐今世紀後半の分子生物学のおかげで我々はゲノムDNAを取り出し、断片化しそれを整理し、その中から調べたい遺伝子DNAを取り出すことができるようになりました。そしてその文字配列を調べ、働きの調節のしくみを理解できるようになりました。さらに、このような知識を駆使して発生分化の複雑なプロセスや、脳神経の構築や、癌など病気の原因の解明などに迫っています。
‐それなのに、こんなに地球上の生命のようすが異なるのは、各々のゲノムDNAが進化の過程で違って来たからだと思います。単細胞の生物は、生きるうえで必要な遺伝子の数が少なくて済むので、大腸菌や枯草菌などのバクテリアで約4,000(ゲノムDNA約450万文字)、少し複雑な酵母で約8,000(約1,400万文字)くらいしかありません。細胞数が959個しかない線虫では15,000(8000万文字)。これに対しイネでは4万くらい(?)(6億文字)、ヒトでは遺伝子が約10万個(30億文字)と見積もられています。
‐こんなに多様でも、最も古くからあったと思われる生命の反応、例えばエネルギー獲得やタンパク質合成などに働く遺伝子は大腸菌からヒトまであまり違わないようです。
‐将来、いろいろな生物のゲノム解析が進んで、その遺伝情報が分かれば、その応用はめざましいものになるでしょう。そして、それと並んで各ゲノムの設計原理を研究したり、比較したりする中から次々と大切な生命の理解が進むでしょう。恐竜ゲノムも、DNAさえ手に入れば先端の技術を駆使して色々と解析できる筈です。
‐ジャンクDNAの中には、過去に働いていたけれども今は働けなくなってしまった遺伝子の残骸や、我々の祖先に感染してゲノムDNAに組み込まれたウイルスの名残りなど、歴史的産物にすぎないと思われるような文字配列もたくさんありますし、何の役に立つのかよくわからない小さいDNAの単位が何十万カ所にわたって散在していたりします。しかし、とにかく、生物はゲノムDNAの何もかもをふくめて忠実に複製し、子孫に伝えているのです。
‐これと並んで(4)我々の体のいろいろな細胞の中で働いている遺伝子のリストを作り、それぞれの性質を記載し、どんな遺伝子が、いつどれだけ働いているのか、それがからだの発達や健康の状況などによってどう変わるのかを、詳しく調べあげる作業を進めます。これをヒト・ゲノム機能解析と呼んでいます。
‐ところで、30億の文字配列を決定し、60兆の細胞で働く約10万の遺伝子の質・量を記載すると一口にいっても、これは、膨大な情報量となりますので、それを処理し、知識情報化しなければ、プロジェクトは有効な成果を生みません。そこで(5)生物情報科学の発達を促し、国内はもちろん国際的にもしっかりしたネットワークを作り、データバンクを協力して作り上げ、またそれを駆使して知識情報化して活用する生物情報科学を確立します。
‐(6)それから、ヒトよりもずっと単純なゲノム、例えばサイズがヒトの0.2%くらいしかないバクテリアなどのゲノムの構造や機能解析を先行させて、その中から新しい技術を開発したり、国際共同研究のあり方、システム作り、データの処理活用などの経験を積むよう努めます。
‐そして最後に(7)ゲノム解析が進んだ段階で社会との接点に生じることが予想される問題の研究も今から始めます。
‐実際は、先にのべたようにヒトゲノムの全遺伝情報の解読に向けて、バランスをとりつつ総合的に、しかも各国ができるだけの力と知恵を出し合って仕事を進めてゆこうということなのです。構造解析だけではゲノムの担う遺伝情報解読には達せられないから機能解析も同時に進めるべきだというのは日本から出された提案で、文部省の研究チームを中心に実行されており、昨今は欧米でもこれに同調して仕事を進めるチームが増えています。
‐ゲノムDNAの文字配列を調べて記載するというやり方で構造解析を進めようとすると、今の技術システムでは毎年10万文字/グループくらいの能力しかありませんから、ヒト・ゲノムの30億文字を全部、と思っても(1グループがこのペースで働いていたのでは)3万年くらいかかってしまう計算になります。
‐しかし、新しい方法論の開発や自動化による大量試料処理法などを開発し、さらに国際協力で取り組めば、労力、時間を数百分の1に短縮できる可能性は十分にあります。分子生物学の発達を促し、自動機器を開発し、コンピュータの進化を進めてきた今世紀後半の科学・技術の発展はまだ頭打ちになっていません。それどころか目標を置いて組織化すればすばらしい成果が上がると思います。
‐「誰の」といっても、ヒトは全て雑種であり、代々遺伝子系が混ざり合い、組換えられているのですから標準というものはないのが当然です。
‐ところが、遺伝子系の大規模解析技術の出現(5年以内にかなり進むでしょう)と、それがもたらす、「遺伝子の構造と働きに関わる大量情報」を扱う時代になると、生命研究と情報科学がドッキングしないとやってゆけなくなります。これは生物情報科学という新しい分野の出現です。多くの研究者はコンピュータのまえに座らないと仕事ができないようになって、バイオサイエンスと言えば飼育栽培、顕微鏡、試験管をイメージする今の姿から変わってしまうと思われます。これは組換えDNA技術の導入に次ぐ生命研究の第2回目の変貌になるでしょう。特に文部省は、この事態に対処できるように教育と研究環境を整備しておくべきだと思います。
‐このプロジェクトの進展に伴って起こる生物学の情報科学化は、宇宙ステーションや巨大加速器の様に、完成してからはじめてインパクトが出る「ハード建設」と違い、全部「ソフト作り」であり、時々刻々その成果を使いながら、さらに次の展開を図るものです。先進国がヒト・ゲノム解析計画に「協力」をうたい、途上国が強い関心を示しているのは、将来の研究資源――大部分はデータベースと新しい研究技術だと思いますが――に自由にアクセスできるよう備えたい、それに対応できる国内の体制を整えておきたい、それには最初から参画しておかなければ、と考えたためです。
‐そうすると、癌、循環器疾患を始めとする「たくさんの遺伝子が関与する疾病」や数千の未知遺伝病に関わる遺伝子などが次々と取り出され、解明されるでしょう。移植拒絶抗原や免疫グロブリン、T細胞受容体の遺伝子群などはすでにずいぶん詳しい文字配列決定作業が始まっています。
‐機能解析については、cDNAと呼ばれる活動遺伝子を表す物質の解析法が確立されて、10万あると思われるヒト遺伝子の全部、あるいは大部分を、そう遠くないうちに記載、分類し、整理してしまえそうだと言う目途が立ちました。
‐これらのデータを全部登載したゲノムデータベースが国際協力によって作られ、それを改訂しつつ、研究者が活用できるシステムができ上がりました。またモデル生物、例えば二、三のバクテリアのゲノムDNAや、酵母菌ゲノムDNAの文字配列の解析記載が大規模に始まり、数年のうちに完成にこぎつけそうだと言う目途が立って来ました。
‐有用性だけではありません、「ヒト」の理解を深めることはわれわれの根源的願望です。「しくみと働きの理解」のほかに、進化の記録そのものであるヒトゲノムの解析を進めることによって人類に関する古くからの問いを解決するでしょう。例えば、人類の歴史、拡散、移動の跡などを知る上で今までとは違ったアプローチができるようになる筈です。
‐もっとスケールの大きな問題もあります。ヒトと並んで色々な生物のゲノム解析が進み、その成果が比較できるようになれば、生命の進化の跡を辿り、いま地球上で栄えている人類がどのような経緯で現われてきたのかという問題など、時間軸に沿って起きたものごとを深く理解できるようになるでしょう。また、我々人間と他の生物は地球上でどのような相互関係をもって生きているのかを知るなど、空間軸に沿った問題に対しても洞察が得られると思います。ゲノムの設計原理を知り、そのなりたち、相互関係を明らかにすることは、人類にとって知的に極めて重要なシステムを作る作業です。
‐科学の自然な発展からゆけば、まず小さいゲノムの生物について解析を済ませ、それから中型ゲノム、次いでヒトへ・・・と解析を進めるのがふつうのやり方でしょう。しかし、「全遺伝情報解読」の重要性と、その解析作業そのものが生命研究にもたらすインパクトを考えると、「ヒトを・・・」という目標を先に立て、そのためにプロジェクトを設定し、必要な技術開発を進め、インフラストラクチャー作りを進めて国際協力で動くほうが、ずっと効率的です。
‐問題はそれを可能にする科学・技術の基礎があり、社会的受容が可能かという判断ですが、我国を含む世界の先進国はこれに「イエス」の判断を下し、あるいは参加しておかねばならないと考えたのです。
‐主要な国の中では、アメリカが毎年約200億円を投資し、10ほどの大きなゲノム解析センターを設立し、ヒト・ゲノムの構造解析を熱心に行っています。この国は研究者層が厚く、全体の企画運営もほとんど一体化されているので強力です。イギリスは年間約20億円を使い、遺伝病関連遺伝子を中心に研究を進めています。それから、かなり大きなゲノムセンターを作って試料や情報のサービスを行い、また線虫ゲノム解析を中心に据えた大規模な文字配列決定のための作業センターを設立しました。フランスは、CEPH、GENETHONと呼ばれる二つの民間団体が最も大規模にゲノム構造解析を進めています。CEPHは、家系分析に必要なたくさんの試料を世界中に配ってこの研究を推進する役を担って来た研究所ですが、昨年21番染色体の「物理的地図」を完成させる上で中心的役割を果たしました。
‐日本につては後ほど報告を見てもらいたいと思います。全体として年間経費35億円くらい。我国のゲノム研究は5つの省庁が縦割りで企画を立てるために集中的な事業や開発に投資できないのが泣きどころですが、構造解析、機能解析、モデル生物ゲノム解析などに見るべき成果があがりつつあります。科学技術会議の森亘委員の下にゲノム懇談会が設けられ、各省庁相互の情報交流と対外窓口一体化の役を果たすようになりました。
‐ECもゲノム研究に熱心で、35チームを統合して酵母菌ゲノムの文字配列決定作業を開始し、成果をあげています。この経験を活かしてさらに大規模な事業を企画中です。ユネスコは途上国の若手研究者にトレーニングの機会を提供しています。
‐国際協力の成果の一つとして、ヒト・ゲノムのマップ作り、各種DNA断片の分類・整理等のデータを一つにまとめる作業が軌道に乗って来ました。このゲノムデータベースは全世界の関連研究者の協力で絶えずバージョンアップされ、人々の利用に開かれています。世界のゲノム研究者の集団であるHUGO(Human Genome Organisation)はこのデータベースを作るための染色体ごとの作業部会や、全研究者の討論の機会を作ったり、調整したりする役を果たしています。その流れとして本年(1993年)秋には、つくばでヒト染色体データのエディターたちの集会が企画され、引き続き神戸でそのエディター達も含め全世界のゲノム研究者が集まって情報交流をする国際集会HGM 93(Human Genome Mapping Workshop ’93)が開かれます。
‐重武装科学は、巨額の「ハード建設」によって成り立ちますが、ヒト・ゲノム解析計画のような生命科学のプロジェクトは、データベース作り、技術開発が中心で、「ソフトの生産」です。前者が我国のハード指向予算システムに馴染むのに比べ、後者は難しい立場に置かれがちだということを強調したいと思っています。